水面下の大車輪

ふと昔の知り合いから連絡がある。

この人、もしかしたら昔、私に好意をもっていてくれたかも、しれなかった。でもその時そう言われたわけじゃないし、どう考えても美人でも魅力的でもない私でもあったし、なんとなく離れてそれっきり。それでそのままなんだから、しょうがないのだわ。

ふられる方にしてみると、経験的に、なんとなく曖昧に離れていかれると、なんだかいつまでも引き摺るものだ。もう絶対に金輪際ありえないって確信して別れれば、楽だ。自分はどうしていたか?思い返してみると、はっきり言われたことがないだけに、こちらもはっきりNOと言ったことがなかった。興味のない相手だったりすると、消えていくに任せてしまったし、それらしいことを言うガッツのある相手でもなかったので。静かで悶々とした繊細そうな青年、そういう人が多かったかもしれない。どうしてそういうタイプの人がいつも好意の片鱗を見せていたのかっていえば、誤解があったからなんじゃないかと思う。

はっきり物を言うみたいだし、強い人格のように思えることがあったんだろうけど、私はそういうしっかりした人間ではない。怠け者じゃないけれど、人に頼られたり、縛られたりするのが苦手で、どう振舞ったらいいかわかんなくなってしまう。だから彼らみたいな繊細で臆病、つまり生きるのに怠惰な人が苦手、私の手には余ってしまう。

楽しくなければ、旅はできない。一人ですっと立っている、違う方向を向いたり、目をあわせたりする楽しさが必要。落ちながら上昇するホバークラフトのような、涼しい顔をして水中は大車輪で脚を動かす白鳥のような、そういう人に出会うといつも心が揺れる。

いつも誰かが好きだけれど、別に愛されなくてもいいのかもしれない。

お前、何様のつもり?自分で自分に突っ込む夕暮れ。