わかる、わからない。


作家のJ・アービングは、映画化の脚本も自分で書く場合が多い。あるインタビューで原作と比べると、映画の登場人物は描写を若干エキセントリックにする。人物の描写に使える時間が短いから、物語を納得させるには、ちょっと濃いキャラにしなくてはならないみたいなことを言っていた。もし、小説が作家の日常から生まれているとしたら、日常って、もっと薄くて、まばらでとらえどころがない世界だ、ということでいいんだろうか。

日常で出会う人のことは、たまたま偶然知っていることしか知らない。小説のように鳥瞰的で、子細な情報をもちうるはずもないし、映画のようにその人物を煮詰めることもない。たまたま私の前では、「こんなかんじ」っていう人が、別の場所では「ぜんぜん違う」ってこと。だって現実は、希薄で、偶然に支配されている。そして唐突に変化することもある。何がおこったか、運がよくないと全貌は、よくわかんない。実に頼りなく、曖昧なのだ。

それがなんだったのか、彼はどういう人だったのか、彼女は意地悪な女なのか、誤解だったのか?何十年もたって、わかったりするのが普通なんだろうか?それは現実のことが頭の中で編集されて、煮詰められて、フィクショナルなカタチにまとまって、はじめて、わかるってことなのかもしれない。

その緩慢で淡白で気まぐれな偶然に満たされた甲斐のない現実ですごしていても、その人に出会うと「わかる」のだと、よくいう。その人が、「彼」あるいは「彼女」だということは、説明のつかないけれど、「わかる」のだと。そうじゃないことも、わかるけれど、たとえそうじゃなくても、現実を選ぶ場合も多い。それに、わかってしまっても、歩み寄れないこともある。多くは確かめようもない。

それでも、いろいろかなぐり捨てて、いつかなっちゃうもんよ、所詮、そういう場合は。そうなると、人道上問題があろうと、外野はもうあきらめてだまっているしかないわけさ。よくわかんないけど。