マリーアントワネットのクオリティ

ジューンというビスクドールを、新宿の伊勢丹のオモチャ売り場で売っていた。5歳の私は、そこへ行くことがあるとため息をついていた。

それを知っている祖父が誕生日に買ってやろうかと言ったらしい。それはブリュのレプリカで縦巻きの金髪に小さな青い目にバラのような頬をしたツンとすました愛らしい顔だちで当時でも10万くらいはしたはずだ。でも「この子は人形なんて嫌いよ」とほかの大人が言ったらしく、話がなくなってしまった。

ばら色のビロードの服をきて、袖口からバラの地紋のベルギーレースがふんわりのぞいていて、バックルのついた皮の靴もはいていたっけな。

かつて私は乙女趣味のカラスのように、そこら中の透明なローズピンクのものを集めては、ベットの下の缶にかくしていた。飴のセロファンとか、何かのキャップとか、誰かが落としたビーズとか、ボタンとか・・・缶をあけると、ばら色の光が立ち上るようで、蓋をあけようとしただけでどきどきした。それを光に透かしてみると、世界はまさにばら色で、幸福ってこういうことだと思ったものだ。もちろん私の幸福は缶の中に封印されていたので、ほかの人が知ることはなかった。

外見は男の子のようだったし、塀の上から返事をするようなズボンに長靴の男勝りがまさかそんな少女趣味だとは誰も思っていなかったろう。私はいつも髪を短く刈り込まれ、よその人には「坊や」にしか見えなかったのだ。ローズな私の世界と、現実は完全に乖離していて、まるでゲイの少年時代みたいだったのかもしれない。

もし、あのとき「このお人形が欲しい!」とカミングアウトしていたら、ひょっとしてもっと楽な少女時代がおくれたかもしれない。ボーイッシュの仮面を外す機会を永遠に逃してしまった、ということなのだ。

大人になって、懐かしいジューンの面影に再会したのは、「インタビューウィズバンパイア」という映画の中だった。あの吸血鬼の少女、まさにキルスティン・ダンストはドイツ系なんだそうだが、ビスクドールのように冷たい美貌の少女だった。ドーラブルというには、温かみのないかわいげのない完成された顔だち。その彼女が大人になり、今度はソフィア・コッポラがカンヌに持っていった新作でマリーアントワネットを演じる。

オーストリア帝国の有形資産として運用された彼女の半生を、時代に翻弄された1人のティーンエイジャーとしてのマリーの視点から描くということらしい。豪華で巨大なドールハウスのようなヴェルサイユの迫力(ロケをしたらしい!フランス政府もルーブルに続く太っ腹!)そこに置かれた生き人形のような王侯貴族たち。監督は歴史の手になりかわって、壮大でゴージャスな人形遊びをしているよう。

そもそも映画というものにはある意味ごっこ遊び的な要素があると思うけれど、あの家系はそれが大好きなのかも?

確かに、あのビスクスキン、目、髪の色、体のラインがあって、マリーアントワネットの物語を始められるということ。お人形がきれいじゃないと、遊びがつまらないからさ、理想のゲルマン少女のクオリティーありき。キャストを聞いただけでもきっと、なかなかのものだろう。