タコライス

長年、わからないままで放置していた。

タコライスというのは、タコのファルシーではなかった。沖縄で取れる小ぶりの蛸の頭にスパイシーなピラフをつめて、オーブンで焼いて、サルサソースをかけるのかと思っていた。つまり言ってみれば、エスニックな人造イイダコ。欲張ってご飯をつめすぎると、口からピラフがちょっとでちゃうのが玉に瑕なのかと思っていた。でもさ、あれ、構造的には口じゃないんだっけ?風船じゃないんだから・・・。

でもタコスの中身をごはんにかけたものだった、あら普通。

映画やドラマや小説で「好き」だの「愛している」だのっていうじゃない?あれは無理なんじゃないかとこのごろ思う。そういうのって「お腹が痛いです」というのと同じで、どこがどう痛いか、そうそう相手が満足いくように説明できない。そういう場合、医者にはマニュアルがあるから、Aが痛ければBとCの可能性とかって見当がつくし、様子をみながら「もしかしたもう少し左が痛いんじゃないですか?」って誘導したりして、ピンゴ!盲腸ですか!なんてさ。

理由は自分でもわかんないけど、相手に近づこうとしている、自分のどこかに心があるなら、そしてそれを見たいというなら、開いて見せようという誠実さがあることだけは、わかってもらいたい。でも、その肝心の本心がどこにあって、どういうものなのか、自分は一体どういう人間なのか、そもそも自分でもわからないのに、人に説明なんてできるか!素なんてものは、ないかもしれないんだから。

一体何が自分の真実で、厳密な主体なのか、それはわからないし、そんなものは存在しない、人間は相対的、実存的なものである。ぶっちゃけ、今生きて動いている脳と神経の総合的なジェネラルコメントが、つまり「私」であり「あなた」なんじゃないかという。

ただ、どんな体制でも、来た球を打ち返すこと、それであとの部分がどんなにビザールなものであっても、3回転半ムーンサルトで背中の筋を痛めてしまうほどの無理をしても、「あなたの球だけは確実に打ちかえしたい」という気持ちと、実行することだけが、友情や愛情として現れてくるものだったりするんじゃないかと思うのよ。

理由があるとしたら、そうしたいから。ま、私はこれまでたいしたことしてきてないけど・・・少なくとも、来た球を精一杯打ち返す誠実さはもちあわせている。仕事であれ、人の気持ちであれ。

わかってもらえないんだよねえ、しょうがないよ、深いマリアナの淵に沈むしかない、初夏になったら、うなぎの稚魚と一緒に日本に戻ってきたらいいよ。