時間という贈り物

いろいろな贈り物があるけれど、時間くらい貴重で嬉しいものは結局ないんだなと思う。この先どんなふうに状況が変わっても、もうすごしてしまった「時間」は何にも冒されずに心の中にキープしているから。

たとえば、超多忙な友達が忙しい合間を都合して会ってくれたり、いろんな仲間とすごしていたりしている。何をするにせよただ一緒にすごすという事実の価値に、静かな感動をおぼえる。失言もあるし失態もあるんだけど、それも含めて、幸せなんだとわかった。だから、いつも人に「思われている」ことを忘れてはいけないと、畏友が言う。「孤独ぶるんじゃない」と。そういう意味では、この人生の幸運を受け入れるべきなのだ。広い世界で出会った人と思いあって生きることは、どんなレベルであれ、すごく希なことだから。

線香花火の芯のように、ぱちぱちと火花を発しているような、エネルギーがそんなふうに体の真ん中にあつまっているようなとき、私は絶好調なんだけれど、もし評価されてもされなくてももう動くしかないというサイン、ということだ。働け!という季節なのだ。

しかし、あの煮込みは恐ろしくおいしかった・・・あんなすごい煮込みを食べたのは生まれてはじめて・・・世の中にあるおいしいものって、深いなあ・・・。あの店の居心地のよさも魔性だったけど・・・ああいう場所って懐かしくて体がなじんでしまう・・・マダムシルクもしかり。将来は煮込みの美味しい呑み屋のおかみ・・・あ、それって天職かも?