昆虫のような

女性には不変の自分などないのだ。少なくとも私にはない。男性よりも顕著に女の体は変化する。子どもの体から大人の体になると、生物としての能力はあきらかに違ってくるし、女の体を通して人間が生まれてくる。私とて、人が二人も通り抜けた体は、その前の体とはあきらかに違うのだ。通過されるという通過儀礼を経て、母になった女は別の生き物になる。使い尽くされてカスになったのかもしれないし、もう待つべきものなど何もないのかもしれない。そして本格的な終焉はあと10年もすればやってくるだろう。生殖能力を放棄して「女」とは、また別の生き方をすることになる。いやおうなしに、昆虫のように生物としての特徴をドラスティックに変えていく、それがある意味女という生き物なんじゃないかと、思うのだ。ほら、女を蝶にたとえる歌もあるじゃない。

性的な関係が重要なのは、いわゆる「女性」である間だけ。母になった体には、そんなことはどうでもいい。子どもを二人も産んでしまうと、大したハードルではない。だって出産以上に極端な女性的な経験なんてありえないし、性交なんていうものはたかだか運動でしかないんだから。むろん、産まない方が体にはいいのかもしれない。なにしろ負担は計り知れないし、体だって戻らない。生んだ女はずっと美しくいることが難しい。命がけで人類に貢献している・・・数的に・・・ということで、社会的な保障になるのかといえば、立場を手に入れやすいということはあるかもしれない。でも女としての人生にプラスかといえば、あんまり関係ない。くりかえすようだけど、一度母になった体は厳密にはもう女ではない。ある意味、もっと違う生き物なのだというかんじがする。

第三の段階を前にして、立ち止まっている。セーターの色をやっぱりいつもの黒にして、もうピンクは無理だろうかと思う。新しい頬紅をレンガ色にする。ピンヒールのブーツを買わないことにする。

確実に体が女としての人生を終ろうとしている。

次の段階?そつなく上手に階段を下っていく、その先のドアを押す。