la mamma morta
昨日葬儀が終わった。
担当医や、親戚や、母の友人が賞賛する。
「お母様は闘病中に、一切弱音をはかず、一言もグチを言わずに立派におすごしになりました。」
私の大嫌いな親戚が「あの人は、立派だったわけじゃなくて、あまり先のこと慮るような性質じゃなかっただけよ。その場のことしか考えない人だったのよ。」と死んでまで母を「鶏」扱い。
ほんと!あなたって120%完璧に隙なくヒドイ人なのね。
他にコメントしようがないにしても「死に方が立派」だなんて、母が逝ってしまったことのなぐさめにはならない。彼女の健康な人生について、誰も血の通ったことを言わない。まるですい臓がんの闘病の間だけ母が生まれて死んだかのように。生きていたころの彼女はどうだったのか?
母親というのは、ある意味人間ではなくて象徴だから、コドモの私には彼女がどういう人間だったのかはかる方法が見つからない。そんなアプローチをかける前に、もういなくなってしまったし。
母が死んだことがどういうことか、多分2年くらいはわからないまま。
無理に考えるのをやめる。
それよりもマリア・カラスが雄弁だ。
「そうなの!どんな名文を読んでもね、隣で歌われたらもってかれちゃうのよね!音楽って卑怯だと思わない?」母がよく朗読の舞台のことで言っていた。母はソプラノ歌手の唄うアリアが好きだった。
"la mamma morta" from andrea Chenier
なにより私には救いがある。私の子供たちの顔の中に母の面影がある。
さて、今日から社会復帰。メーラーを開いたら、仕事が山積みで待っていた。なんという幸運!と思う。ママがいなくても、先に進めざるをえないってことだ。泣いてはいられないのだ。