ボランティア

仕事で長年医療ボランティアをしている人を取材する。

どういう仕事をしているのか、どんな動機でしているのか?みたいなことを聞いてみるのが目的だったんだけれど、
資本主義がカバーできない需要と供給、プラスアルファを担う存在として、批判があっても必要な部分。社会の余裕みたいなものがこういう活動をする人に現れるんだと思った。賃金労働をしなくてもいい、今この社会で一番裕福で余裕のある50代の主婦がメインになって、目的意識のはっきりした、ゆったりした精神状態で仕事をしている。善なるものは、揶揄される運命を背負う。でも、カソリック的な精神にも習うべき概念があるものだ。

で、結論。おばさまたちは上手に孤独になりすぎない方法を知っているということ。出すぎず、でも社会貢献ができて、時間も奪われすぎないこと、傷つかずにプライドを満たす、安全な場所を確保することにかけてはハイスキルなのだ。何にせよ、何かすることで得るものもあり、彼女たちの中のバランスシートは帳尻があっている。これぞ、生きるテクニックだと、思った。

私はリスクを犯して利益を獲ってくる生き方しかしらない。ハイリスクなこの頃、ボロボロに心を痛めてしまっている。そうじゃない生き方を、今選択することはできないんだけれど、なんだか、情けないなと思う。プライドと時間を切り売りして、お金と引換にどんどん孤独になっていく気がする。僅かなお金なのに。

切ないことだ。

母を思い出す。安全地帯から一歩もでずに生きた人。でも私は彼女がどういう人なのか、まったく知らない。他人に見せていたきれいな外面と同質のの「母親らしい」「正しい」人格しか知らない。生涯仮面を外さなかった人だった。それが素顔だと自分でも信じていたのかも、だから早く限界を迎えてしまったのかもしれない。

自分はどういう生き物なのか、確かめずにいられたんだろうか?あえてそれを無視することがコツ?傷つかないで上手に生きるには、そんなこと、無視すべきなのか?