それは悪ではない。

ライターは魔法の鏡と同じ、ネガティブな心で向き合うと暗黒面ばかり映してしまう。

小さいときから、美しくない子どもというのは、自分がわかっている。だから見えないところに何かとりえがあるんじゃないかと、小さな希望を持って大人になる。果たしてそれがまったくないことがわかったとき、せめて「才能がないことは切ないけれど、悪ではない」といってくれる師があったらかなり楽になれるものだ。自分への徹底的な失望、見当違いな探求、何もなし得ないという予感から自由になって、どうでもいいじゃない、他の幸福をさがそうと思えるというものだ。

学生のころ、むこうは覚えていないだろうが、萩原朔美先生がそういう師だった。先生だから、学校で課題発表する学生のおびただしい映像作品のひとつひとつに付き合うわけだが、およそコメントしようもないほど内容がない作品も先生が寸評すると、なんだかいいものを見たような気がしてくる。そうやって、才能のない山の中から、誰かが芽をだして育っていけばいい・・・まあ学校というところはそういう場だ。むろん、私のつまらない作品も、先生の才能を得て、面白いコメントに育っていく。確かに見る人が見れば、つまらないものはない。そして先生のような縦横無尽な論点や、視点は、とうてい自分にはない、こうでなければつまらないから、もうやめよう、と思って、映像も批評もやめた。

学生を終えて、普通の仕事をしようと思ったが、自覚のない非常識さと、人柄の邪さが邪魔をして、なかなか就職できなかった。だから、こうして、社会の片隅で1人なんとか日銭を稼いでいるわけだ。どういう邪さかというと、私は生涯で一度も「はないちもんめ」で指名されたことがない。それは悲しい切ないことだけど、断じて「悪」ではない。そうですよね?先生?