既約分数

という言葉を忘れていた。

子どもに算数を教えていて、この言葉にいきあたった。もうこれ以上約分できない分数のことだ。そういえば、子どものころ、約分が好きだったことに思い至る。素数も好きだった。それは子どもっぽい潔癖さだったのかもしれない。
でも、10個あるうちの5個を食べても、2個あるうちの1個を食べても同じだと思えという・・・子ども心に、そういうスウガク的冷酷さに腹が立ったし、感情的にいっても納得できないと思った。それは10個のうちの5個と100個のうちの5個との違い、ありがたみの重さみたいな?でも、大人は案外そういう価値観で動いているんだね。

ホンマタカシはものすごく目がいいんじゃないだろうか?視力が200とかなんじゃ?山の写真を撮ったというので、見て見ると、山とレンズの間にある空気が写っているような気がしてくる。塵や埃や、ウィルスや、ホンマにはそんなものが見えていて、被写体とさえぎられている感覚があるんじゃないかと・・・普通の人がふぶきの中にいるみたいに。だからどんなランドスケープを撮っても、どこか遠い、たどり着かない夢の中の風景みたいなもやいだかんじがするんだろうか。

アンセル・アダムスが同じ山を撮ったとしたら、それは紙焼きをコブシでたたいたら血がでるんじゃないかと思うくらい、目前の生々しい物質感だ。山というよりも大きな岩のように見える。モノクロームだからだけじゃなくて、あまりにもソリッドな写真で、解釈を寄せ付けない。岩、とか山とかしかタイトルがつかないかんじ。1cmくらいに接近して、鼻先に感じる対象の硬さ、「山は岩だ」みたいなかんじか。

現美にいってカルティエ財団のコレクションを見なくては。藤田もまだだった!
 Tut mir leid!