観念的に女

肩ごしの恋人」がドラマ化されるらしい。米倉涼子が主演で。

萌とるり子という女性のお話。タイプの違う長い付き合いの彼女たちにからむ男性と恋愛を中心に描いてある。直木賞をとった理由は私にはわからないけど、女の楽屋話が好きな人は世の中に多いのかもしれない。「親友」と相手を呼ぶのはるり子、猫科の女。萌は揺れるヒト科の女、「親友」なんてものを信じない。英語では「古い友達」というのが「親友」と翻訳されるじゃない?なんかわかりやすい気がする。ひょっとしたら気なんか合わなくても、人間にとって大切なのは、そういう心情や主観より、時間なのかもしれない、っていう考え方。24時間の中で、その人のことを考える、実際に会う、メールを書く、っていう絶対的な時間。それがその人との親密度と=になる。この考え方はすごくわかりやすい。

この本は、女の妄想めいた楽屋話なので、出てくる男がみんなプロトタイプの美男でちょっと馬鹿らしいのだけど、面白いのはゲイの人たちが審判のように登場すること。私思うんだけど、世の中には事実としての男女と、観念的な男女があるんじゃないかしら。ゲイの人は、まさしく「観念的」に女や男を生きていて、本人の生物学的な事実は伏せている・・・という点で、女の楽屋話を語るにはふさわしい人選なのかもな、と思う。「女はこういうもの」というイデアを演じることが気持いい、女でも男でもそういう演技が大好きな人っているんだろうって。のっぺらぼうの「人間の芯」みたいなのがいて、それが顔とか感情とか性器とかドルガバのスーツとかを好きなように選んで演じているマスカレードみたいなかんじね。
のっぺらぼうがのぞく人と、ぴったりはがれない人がいるんだろうか。人間には?

男をタブらかして女を武器に生きている風の「るり子」が、ゲイのリョウと通じ合うっていうのは、女を演じている女と、女も男も演じていないリョウが、素の部分で通じているからかもしれない。実はマニッシュに淡々と生きようとしている萌の方が、るり子よりも本質的にリアル女だって、ことなのかなあ。小説の終わりに萌は身ごもるしね。いかに無意識でも、萌はすごく女なのだっていうことなのかも。

その無意識なまでに女っていう役を米倉涼子が演じるんだって。るり子じゃなくて萌を。男を渡り歩くしたたかな猫科の女のキャスティングが難航しているらしい。ゲイの人をキャスティングしたらどうかしら、女という観念が歩いているみたいなそんな女で、米倉を食わない女優なんて、いないかもよ?

でも、美男がうじゃうじゃ出なくちゃいけない作品なので、ホルモン活性化のために40代以上の人は見たほうがいいかも。誰が誰を演じるのか、みんな同じ人でもいいくらい没個性的なんだけどね。美しい手をしていて、うじゃじゃけた優柔不断で狡猾で、背が高い二枚目で高学歴なイメージにはまるなら、誰でもOK・・・80年代な感覚だ。でも、ホルモンのためには、適切なかんじ。