勉強家のおばあさん

前にテレビで見た女性が忘れられない。

一人暮らしの老人で、足が不自由なので、あまり出かけず、ほとんど動かず、テレビの前にすわってすごしている。裏が白い広告を糸で丁寧に縫い合わせてノートを作っている様子をカメラが撮る。
「これはね、勉強の帳面なんですわ。」下を向いた内気そうな顔でニチャニチャ笑いながら、嬉々としてお手製のノートをカメラの前にかざす。
「あたしはね、人生はずっと勉強だと思ってるんです。だからテレビが教えてくれること、全部書いておくんですわ。ありがたいありがたい。」そういいながら、ちびたエンピツで、ものすごいスピードで帳面にテレビのニュースを書き留める。もうそうなるとカメラがいようがいまいが、関係ないみたいに。いたたまれないように画面はフェードアウトしていった。

それはある日の夕方、5時のニュース。
どういうつもりで彼女を取材したりしたんだろう?

彼女の取材していることはすでにメディアで流された情報で、興味をひいた情報だけを彼女風に編集したそのスクラップブックには、客観的な価値はない。ただ、日がな一日テレビを見張っていて、全部記録しておこうという情熱がものすごくアナーキーな印象だったのだ。いろいろな服を重ね着して着膨れしてずんぐりした体、もじゃもじゃの髪、うつむき加減の表情。神がかったかんじがしてしょうがなかった。彼女はその4畳半の茶の間から世界を変えようともくろんでいるのではないかと。この暗い情熱の正体はなんだろう?ずっと考えているけれど、わからない。

ただ、このごろ、思うのは、私と彼女は根本的によく似ていて、同じような感覚で生活しているかもしれないということ。それは嫌悪感と懐かしさの入り混じったセルフイメージになっているのかもしれない。テレビの情報は万人に平等で、ここなら辛い思いをしないで世の中をのぞいていられる。ありがたいありがたい魔法の窓のようなもの。

メディアのアイドルが誰にでも満面の笑みを絶やさないように、どんな「私」にも平等なのだ、マスメディアというものは。孤独者の最後の砦、しかもそんなに費用がかからない。テレビでも見てれば?社会はそういい捨てる・・・私のような人間に。

愚者はどこまでも暗い坂を下っていくしかない、明るいところへ出るサイドウェイがいくらあっても、誰かに呼ばれても気づかない。