画家の親友

彼女は電車に3時間も揺られて、大きなポットを担いできた。しかもピンポンダッシュじゃあるまいし、2日間かけて煮出した桑茶を玄関に置いて帰ろうとするのだ。病身の母のために煮出してくれて、わざわざ運んできたにもかかわらず。病人が疲れては本末転倒!明確なこと!母の親友は洋画家で、相当純粋で変わった人だ。

彼女のことを父は「サムライ」と呼ぶ。優雅で美しい女が好きな父は、日本の女というには奔放で、どこか遠い目標を一心に見つめているような彼女のエネルギーに面食らってしまうのだろう。父はばかにしたように接しているけれど脅威さえ感じているのかもしれない。

彼女を思う母の情は、ひょっとしたら父へのそれよりも強いかもしれないから。

中米を拠点にしているので、来日するたびに会う彼女は、エキセントリックなんだか、案外古風で常識的なんだか、判断の基準がどこにあるんだか、私にはいつもわからない。彼女の気に入るような適当な発言というのは、とてもむずかしくて、見透かされてしまうような気がするのだ。小さいころか嘘つきで用心深くて、大人に合わせて自分のヴァージョンを変える私は、彼女も大人の一人として処理しようとしていたが、調子がくるってしまう。あきらめて、観念して、素のままで会うことになってしまう。

「あの人は特別な人なのよ。」母は秘密を明かすように彼女のことを話す。

70になろうかという大人の常識ではないだろうけれど、病身の親友は、彼女にとってはよその家庭の問題である以前に、彼女の問題でもあるんだろう。古い友というものは、なんだか不思議な、理屈では割り切れない、不恰好でなんとも美しいもの、なのだと思う。