キリンを飼う

上野動物園のキリン舎に行くと、我を忘れてしまう。

知らなかったわけではないのに、ここ数年、あまりの美しさに目覚めてしまった。
身体の模様も、デザインもあまりにも常軌を逸していて、果たして常軌とはなにか?
誰かがなずけた霊獣の呼び名も、いまさらながらうなずける。
長年の友人に突然恋をしたみたいに狂おしい、違うチャネルが開いてしまったみたいだ。

皮と肉と骨でできた獣には違いないのだけれど、どうしてあんなに美しいんだろうか。

いつか自治体の美術展の企画の仕事をしていたとき、会議で変わったアイディアを求められたことがあった。
天井高20メートルの廃倉庫を会場にした展示、というのが条件。

迷わず「キリンを飼うのはどうでしょう?」いつもどおり、私の意見は宙を漂う・・・小さな咳払いと、「また・・・あなたの言うことは突飛ですね。」と代理店の人のしかめつらしい声が耳に遠く聞こえる。

その小さな港町のアートイベントには都道府県から援助が出るんだから。それで買えるはずだ、番のキリン。
町のシンボルとして、レンガの美しい倉庫で、潮騒の聞こえる廃港の片隅で、私のキリンがたたずむ。子どもたちは、彼のためにえさを運び、頭にこびりついたテレビで見るキリンの客観的データを、目の前の美しい、血の通った獣の印象に差し替えていく。子どもたちのキリンは、檻の前を無関心に通り過ぎるだけの、動物園によくいる動物でもなく、図鑑の「キリン」でもない、特別な自分だけの存在になっていく。首の長い、まつげのしばしばした、背の高い金色の稀有なイキモノ。

キリン専門の飼育員が雇われて、掃除をしたり、干草を変えたり、身体をきれいにしたりする。晴れた夏には、もう船のつかない船着場に、背の高い金色のキリンが、のしのしとゆっくり歩き回るのだ。

私が天から与えられた、小さな小さなチャンス。いつだって、願いなど、簡単に叶わないものだ。地産地消のレストランとか、地元の織物をつかった子どもファツションのブランド化などにまぎれて、私のキリンは、どこかへ消えてしまった。

だから、夏の午後、黄金に輝くキリンをただ見るために、上野へでかける。
ばさばさしたあのまつげが、閉じたり、開いたりしているのを見に。

心の中の港町には、キリンがまだコンクリートの桟橋をのしのしと歩いている。
日本海の夕日をあびて。やあ今日も元気かい?冬を無事に越せるといいね。
キリンは経験したことのない「冬」について思いをめぐらす。それはどんなかんじなの?
私は冬について、説明する言葉をさがしている。日が暮れてきて、冬はちょっと夜と似ているかもな
と思いつく。キリンは長い首をかしげて、私の話を聞いている。寒くて暗くて雪が降るんだ。
雪については、また今度話してあげるよ。キリンはまつげをシバ立たせる。

夢はいつも叶わない。