Wally Stanton

私は結局、ウォーリー・スタントンが現れるのを待っていたのだ。

ある日、ロンドンに現れたスタントンというアメリカ人は実在さえしないのかもしれない。映画公開当時、まさに駆出の映画ファンで、古雑誌を読み漁り、名画座を渡り歩き、小遣いをはたいて映画を見まくっていた。しかも遅れて生まれてきたことを恨みながら、50年代の邦画やハリウッド映画を網羅する毎日。いろいろ見ているわりには、スタントン。平凡な女だ、私は。

1979年にふと「アガサ」という映画を見つける。ダスティン・ホフマンが好きなあまり、あまり考えずに映画館へ行ってしまったのだけれど・・・夫の裏切りに傷心したクリスティが、夫とその愛人に復習する恐ろしい企てを実行しようとする・・・取材だということを隠して近づいたスタントンというアメリカ人ライターは、だんだんにアガサに惹きつけられ、ついに彼女に魅了されてしまう。この映画では特にホフマンの目がいい。理性と感情が入り混じった哀しい焦がれる人のまなざし。山の賢者のような低く乾いた声も効果をあげている。女の人生に入り込めない、間が悪いだけの理由で当事者になれない男。あのタイミングでなかったら、当然のように寄り添って生きていったかもしれないけれど、所詮人間の関係はタイミングなのかもしれない。無限の可能性と、偶然のタイミング。

「あなたは賢い人ね。」「君は僕の倍も賢い人かと思っていたよ。」アガサ・クリスティをでさえ人間として知り、ただ一人の女として愛する力のある男。この映画の中のアガサは隠しもせずに中年女の痛々しい繊細さ、弱さをさらけ出す。精神的には脆くとも、強靭なる頭脳をもつ彼女は、自助努力では防げない、もしかしたら最初から予想のついていた緊急事態を、超人的な作戦で強制終了させようとする。スタントンだけが、手掛かりを見つけ、瀬戸際のアガサを守りえるのは、彼も賢いから、だけではなくまさに熱狂的な集中力で彼女を観察していたから。そして女でもある、作家のペンに先んじようとし、でも最後の最後には不敵な作家に一杯食わされる。

それともスタントンは映画の中でも実在せず、彼女の妄想の中の人物、あるいは分身(アニマ)のような存在だったのか?こういうケースはちょっとくらいハンサムでないと、お話にならないでしょ。ベルギー産の灰色の頭脳では。作家は自分以外の人間をたくさん内包している。だから・・・まさにドラマの中盤で、彼は「僕と君はそっくりだ」と言っていたわ。

実際のアガサは、ひょっとして夫にあんまり頭のいい男を選ばなかったなんてことはある?

10代の私は自分のスタントンと出会って、ふと仮面の下をのぞかれるハプニングを待って、大人になった。
洒脱で勘のいい、得意ジャンルがかぶらない、私の内面に好奇心を持ちうる、成熟した大人の男。