子供は育つ

子供を連れてギャラりーのパフォーマンスを見に行く。奇抜な作風なので、大丈夫かな?と思ったけれど、ちゃんと見ていた。
いつまでも赤ん坊だと思っていてはいけない。はっとするようなコトを言うのだもの。新しく私を孤独から連れだしてくれる友が現れた気がして、嬉しかった。逆を言えば、してあげられることも減っていく・・・ということでもある。少しずつ親を超え、個人として足場をつくっていく。せめて考えうる最良の情報を選んで提供する、それくらいしかできないのかもしれない。人は語られた言葉、読んだ言葉、見聞きしたこと、体感したことで出来ている。

@渋谷の明治通り沿い「LE DECO」http://home.att.ne.jp/gamma/ledeco/古いビルが一棟ギャラリーという場所。ih舞台製作所というユニットで、時々公演案内をもらうと見に行く。今回は田口賢治http://homepage2.nifty.com/studio-shinkucan/news.htmlの作品空間での公演だった。古今東西のテクストをひとつの作品の中に織り交ぜながら、空間をつくっていくような作風。言葉を話す俳優と俳優をつないだ線が天幕のように演者と観客を分ける。今回はオープンなギャラリーで突然俳優がテクストを読み出すような始まり方。もちろんもう「観客」を演じる準備ができている人は役割をわかっていて、俳優の動きを妨げないようにギャラリーの中で立ち位置などを決めるけれど、ただ流しの客は入ってきて、空気が変なのでとまどう。

あるいはそういう空気に瞬間に反発して、乱暴に音をたててわざわざ破壊的に場を去る人もいる。今回特筆すべきは宅配の人。彼は本当に社会的な役割をもって、空間に入ってきたけれど、誰に印鑑をもらったものか?まさか朗読をする俳優に?そこまでしてしまったら、俳優はどうするのか?でもまさに空気を読んだ彼は、静かにギャラリーを横切り、運営関係者らしき人に小声でなにか尋ねていた。「ナンカやってたよ〜」って誰かに言わずにいられないかもしれない。

空間ができている、ってことが演劇的なのだろうな、わざとオープンな空間で見えない劇場をつくる力、そういうものについて考えているんじゃないかと思うと、ただただインターラプションのために異空間から入ってくる別の俳優がいても、面白いかもしれない。
故意のKYが外から乱暴に空気を入れ、見えない天幕が開かれてしまう、どこまでが演劇空間で、何がそうじゃないのか?それは俳優がリアルには生きている生物で、演じていようがいまいが社会の中にいるという事実、どういう座標で存在するかということ、なのかもしれないと思う。子供は「大人のごっこ遊び」について、なんかそんなこともわかっている、みたいだった。