前をいく人の踵を踏む

毎日、前を歩く人の踵を踏んでしまう。前を見て歩いていても、いくら注意していても、どうしても距離感がつかめない。知らない人とでも、縦列で歩いていると、かならず、踏んでしまう。

それがミュールの女性だったりすると、死ぬほど申し訳ないので、踵の出た靴をはいた人の後ろは極力歩かないことにしている。KB伎町の桜通りでも、前の人の踵を踏むんだから、命知らずである。なんとか五体満足なのは、単純に運がよいだけ。

さらに、人にぶつかる。10日に1度は、漫画のように、カーネルサンダースやペコちゃん、電信柱などの無生物にぶつかって謝っていると思う。だいたい、対人+対物センサーが壊れていて、相当な至近距離になるまで、他人の接近に気づけないのだから、用心しようがない。たとえ、友愛を感じていなくても、隣を歩く羽目になった知り合いはすべからく、操縦係になり、「前!」とか「右!」とかと注意してくれる。池袋のRS会館裏で、若者に激突しても無事なのは、運がよいからです。

また、それが問題だ、実は左右の区別もつかないのだ。生まれつきの左利きを幼児期に修正したらしくて、とっさに利き手がわからない。だから「右」といわれてサイドに注意ということはわかっても、方向は瞬間わかっていない(んですよ、すみません。)

さらにモノを取り落とす。これまで居合わせた人が親切だったから、モノがなくなっていない、これも単なる幸運。もしかしたら神経の障害があるのか。自分がぼんやりしてることにさえ気づかないなんて、注意散漫すぎる。

ですから、長生きをするためには、いつもクリアな気持で、荷物を少なくして、人の出歩かないすいている時間帯に、気持をはりつめて歩けば、いいんだと思います。

そして、難関は地下鉄の自動改札である。あれは、入り口と出口が一緒で、時と場合によって↑と×が変わるでしょ?それに対応できなくて、×に激突。だってほんの瞬間前↑だったんだから・・・運動神経?地下鉄にもまともに乗れないなんて、本当にあることとは思えない。表さえ普通に歩けもしない人間に存在価値などない。この不適合を負うかわりに、なにか取柄を授かっているんだろうか?考えるだけ、ただ目の前が真っ暗になる。

公開中の映画「プリティ・ヘレン」の小さなシーンで、寂しそうな中年の信者がハンサムなルーテル派の牧師の歓心を買おうと、ブラウニーを焼いてもっていく、というのがある。他に取柄のなさそうなネジの外れた女に手製のお菓子をもってこられたらおぞましい?それを含みつつ喜んでみせる牧師の適当さ加減は、どうなるのか?
こちらとしては、愛するのに何の努力もいらないエンジェリックなケイト・ハドソンなんかじゃなく、あのミス・ブラウニーとセクシー牧師の大恋愛が見たかったくらいだ。神は、持たざるものを愛するんじゃなかったっけ?それだったら、あんだけちんたらした内容にはならずに済んだかもよ?成功した25歳の美人キャリアウーマンがお姉さんの子どもを3人ひきとって急にママになって大失敗!でもそのうちコツをつかんで万事OK、牧師もゲット、仕事も復帰!超ハッピーみたいな話、面白い?ジョン・コーベットもまるで営業すぎだし。

ソリッドな自信があると、人の過度な好意なんて、怖くない?そうですか?

本日の夕飯:目鯛のからあげ ホウレンソウのおしたし 三つ葉と鮭の炊き込み飯 葱の味噌汁